金沢会館管守の一人であるA.Yさんは、以前、『とどろき』という仏教の月刊誌に手記が掲載されました。
仏法との出会いを紹介されていますので、今回はその手記をご紹介します。
インタビュー記事も後日投稿しますのでお楽しみに。
体験手記
母が遺してくれた『とどろき』
親の恩かみしめ聞法へ
「Yにも読ませたい」。亡きお母さんの遺品から見つけた本誌で、
尊い仏縁を結ばれたAさんの手記です。
五百年前、蓮如上人が吉崎御坊を建立されてより、程近い石川県加賀地方には爆発的に親鸞聖人の教えが広まりました。やがて加賀はじめ各地で一向一揆が起き、対立する織田信長との十年に及ぶ石山戦争が勃発しました。
護法に燃え、加賀門徒も奮闘しましたが、一五八二年、鳥越城で徹底抗戦した三百名全員が殉教し、全滅したのです。
私はその城跡に程近い鳥越村(現・石川県白山市)に生まれました。
村は全戸が浄土真宗で、他宗教に入ろうものなら村八分となるほど熱心でした。
幼い頃、祖母から夜寝る時に「王舎城の悲劇」や親鸞聖人のご一代記を聞かされたものです。
しかし、そんな鳥越村でも「念仏称えていれば、死んだら極楽」という話ばかりでした。
母は苦しい人生でこの世の救いを求め、そんな説教に物足りなさを感じていたのです。
その母が八十歳を超えた頃、新聞広告で『とどろき』を知り、購読するようになりました。
「平生業成」の親鸞聖人の教えがハッキリと説かれているではありませんか。
真実の教えに目覚めた母は、折にふれ、
「Yにも読ませなければ」
と私に『とどろき』を勧めるようになりました。
しかし私は、
「そのうちに読むからそこに置いておいて」
と返事しながら、心の中では反発していたのです。
平成二十一年三月
最愛の父を突然、失いました。そして二カ月後に母も、夫を亡くしたショックから、後を追うように亡くなってしまったのです。
「朝には紅顔ありて、夕には白骨となれる身なり」
と蓮如上人が仰るように、あまりに厳しい無常に言葉もなく、ただ立ち尽くすだけでした。
失意の中、遺品を整理していると、ふと『とどろき』が目に留まりました。
「Yにも読ませなければな」
元気な頃の母の声が聞こえてきたのです。
時間も忘れ、その場で、読み続けずにおれませんでした。
飛び込んできたのは『正信偈』冒頭の「帰命無量寿如来 南無不可思議光」のお言葉。
どんな意味だろう。母は何を私に伝えようとしていたのだろう。意味が知りたくなり、バックナンバーを全て取り寄せて、『正信偈』の初めから読まずにおれませんでした。
「親鸞は阿弥陀如来に救われたぞ
親鸞は阿弥陀如来に助けられたぞ」
と高らかに歌い上げられるみ教え。
「生きている時に絶対の幸福に救われる?これが親鸞聖人の教えだったのか。母は、このこと一つを伝えようとしてくれていたんだ」
いても立ってもおれず、金沢市の勉強会に足を運んでいたのです。
初めて聞く本当の親鸞聖人のみ教えには
「苦しくとも、なぜ生きる」
人生の目的が明らかに説かれているではありませんか。続けて聞かずにおれなくなったのです。
聞法を重ねるにつれ、親鸞聖人のみ教えの素晴らしさ、そして生み育ててくれた両親の深い恩が知らされます。
「父に慈恩あり、母に悲恩あり。そのゆえは、人の此の世に生るるは、宿業を因として父母を縁とせり。父にあらざれば生れず、母にあらざれば育てられず」
(お釈迦さま)
「お父さん、お母さん。生まれがたい人間に生んで育ててくれたのは、この真実に私を遇わせるためだったのですね」
母が『とどろき』を購読していなければ、そして、勧めてくれていなければ、今の私の仏縁はありませんでした。
「お父さん、お母さん、ありがとう。そしてごめんなさい。二人が生きている時に、一緒に親鸞聖人のみ教えを聞きたかった。今はもうかなわぬ願いだけど、命と引き換えに伝えてくれたこの真実、必ず聞き抜くからね」
両親の恩を胸に、弥陀の本願を一日も早く聞き抜き、大悲の願船に乗せていただけるよう、光に向かって進ませていただきます。
