今回は、顕真平成16年4月号に掲載された黎明期の証言を紹介します。
「寺で10人」が続いた石川県 不惜身命の法戦、龍華の御代まで
高森先生が50数年前、地元・富山県に点じられた法灯は、隣の石川県金沢市へ飛び火しました。
しかし、石川県では20数年、”参詣者10名”が続いたといいます。
「ここは、縁のない土地なのだろうか……」 と、だれもが思ったそうです。
日下部浩さんは昭和28年に、石川県金沢市で仏縁を結んでから50余年、親鸞会の要職を歴任し、本会の発展に寄与してこられました。
日下部さん
「親鸞会は、いろいろな人から、いろいろな縁で伝わっていった。人から人へ、口コミで、親戚、知人へと、伝わっていった」
平成4年に、草創期の法友を集めて開かれた「前田のつどい」で、高森先生はおっしゃいました。
石川県も例外ではありません。先生と親鸞学徒、点と点のつながりから、石川のご布教が始まったのです。
最初は、砺波市(富山県)の中島さん(故人)のご縁と聞いています。
金沢市の勝光寺の奥さんは、中島さんが真実を伝えた中島家の親戚から、嫁いでいました。それで、高森先生を寺へ、ご招待するようになったのです。
私も、勝光寺で初めて先生にお会いできました。後に先生をお招きして家庭法話を開かれる辻さんも、そこで仏縁を結んだ一人です。辻さんは、妹の岡島さんに伝え、岡島さんもやがて、地元の石川県津幡町に広めるようになっていきます。
しかし、石川県の参詣者は、勝光寺で2、30人、ほかの寺では、10人ほどの時代が長く続きました。
本願寺の話を聞いている人も多かったので、本当の親鸞聖人のみ教えが心に入らない人が多かったように思います。
「どなたの話も同じだ」と思い込んでいる人や、ほかの布教使の話も熱心に聞き歩いているおばあさんたちもいました。
それでも先生は、何年もこの石川で、続けてお話くださったのです。
まとめ役に就任、飛躍の秋
日下部さん
昭和50年の秋のことです。
富山のある公民館でのご法話の昼休み、高森先生に突然、呼び出されました。
控室に伺うと、「日下部さん、石川の親鸞学徒をまとめてもらえませんか。」 と言われるではありませんか。
経験のない私に、「石川の皆さんに相談しませんと……」 と申し上げると、「今晩死んだら、どうするんです」 とおっしゃいます。
「はい。させていただきます」と、お返事しました。
勤めていた保険会社では当時、一部門の責任者を任されていました。多くの部下の育成があり、業績も上げねばなりません。二足のわらじは大変だと思いましたが、お引き受けした以上、やるしかないと覚悟を決めました。
翌年の1月1日付で正式に引受け、活動が始まりました。最初の任務は、1月7日の金沢市北部の寺でのご法話開催でした。 引き継ぎを受けて、驚きました。
「寺に葬儀が入ったり、門徒から法事の申し込みがあると、そちらが優先されることになっています」 と聞いたからです。 “いつ中止になるか分からぬ場所に、先生をご招待するなどとんでもない。一挙に改革しなければ” これを契機に、市の中心部でご法話を開きたいと思いました。
しかし、交通の便の悪い時代、郊外にあるこの寺の参詣者が、中心部まで足を運ぶのは難しいので、ひとまず寺から近い東金沢の公民館へ会場を移すことにしたのです。
寺に謝り、高森先生へのご案内はもちろん、皆さんにも変更を徹底して、ご法話の準備を進めました。 寺での開催には、お仏壇の設置は要りませんが、一般会場でとなると、そうはいきません。日が迫っていたので、壁に紫色の布を張って、正御本尊をお掛けし、地元の親鸞学徒から仏具をお借りしてのスタートでした。
その後すぐに、仏具はもとより、絨緞などの備品も買いそろえ、この公民館に3回、先生をご招待しました。3回目には、参詣者でいっぱいで、「もっと大きな会場でなければ駄目だ」 という声が上がり、金沢市中心部の観光会館で、ご法話を開くことになったのです。
準備のため、念入りに打ち合わせをし、親鸞学徒で協力して案内に奔走しました。
ご法話当日、多くの参詣者を迎えた喜びは格別でした。それまでの公民館と比べ、格段に広かったので、最初は会場の3分の1ほどの参詣者だったと思います。それでも、300人は来られたでしょうか。
「よかったー、よかったー」と口々に、喜び合ったのを覚えています。このご法話で、親鸞学徒同士の心が一つになったのです。
観光会館での初めてのご説法の後、高森先生が大変喜んでおられたと、随行者から聞きました。
お葉書も頂きました。
「合掌
泣いている
苦しいからではない
悲しいからでもない
こんな悪魔羅刹が
恵まれすぎて勿体なくて
嬉しくて
みなさんの苦労が実を結びましたね。
みなさんによろしくよろしくよろしくお伝え下さい」
寺での高森先生ご法話が、中止になる可能性があると聞いた時には、本当にビックリしましたが、これも無上仏のお計らいだったのでしょう。
一般会場に移した結果、転悪成善で、程なく市の中心で盛大にご法話を開けるようになったのです。
以後、参詣者は大きく増加していきました。
日下部さんは自宅も、講師の法話の場所としました。
自宅での仏法讃嘆
日下部さん
自宅には、2、30人が集まりました。
仏法讃嘆は、いつも午前1時を過ぎてしまい、一晩中続いて、私の家から通勤した人も何人もあります。
会社の仕事は夜中までやったら疲れますが、仏法に触れている時間は非常に楽しく、疲れは感じませんでした。
親鸞学徒の皆さんも、聞法に燃えていました。如来聖人善知識のご念力に動かされていたのだと思わずにおれません。
当時、他の県の親鸞学徒の状況を私は全く知りませんでした。
そのため会社での経験を基にやっていくしかないと、自分なりに考えて、地元の親鸞学徒のみなさんを盛り上げていきました。
教義に反しないことを大前提に、世間の方法でも、いいものがあれば、どんどん取り入れました。
加賀方面をサポートしてくれた宮北夫妻や、羽咋方面で活躍する山崎さん夫妻なども現れ、おかげさまで石川県は一致団結し、急激に伸びたのです。
「きちんと法施ができる力をつけなければ」 と思い、説法大会も開きました。私も含め、多くの人が、説法に立ったのです。思いつくことは皆、実行しましたね。
ご冗談だったのだろうと思いますが、高森先生が 「日下部さんが説法される時には、私の教誨服を着なさいよ」 とおっしゃったこともありました。
編集後記
富山県高岡市前田町にはじめて会館ができたときの落慶時のお言葉です。
「マッチ一本でなくなるこの会館で、無量永劫、消滅しない南無阿弥陀仏の宝を頂くのです。限りある会館で限りない幸福を獲ることが大切なのだ」
その後も法城が建立されるたびに先生は、同様のお言葉で、重ねて教えてくださったと日下部さんはおっしゃいます。
これは、金沢会館にも通じる御心だと拝察いたします。
だれのため、何のための法城なのか。
目的を忘れず、これからも浄土真宗親鸞会金沢会館で、阿弥陀仏の本願を聞かせていただきましょう。