【黎明期の証言】目のさめるようなご説法

今回は、黎明期の証言で、親鸞会結成前のKさんのインタビューを紹介します。

目次

ハッキリ答える布教使がいない

昭和8年、東京に生まれた私は、戦争のただ中で育ちました。

「死んで護国の鬼となれ」との教育を受け、小学校で射撃や手榴弾を投げる練習をし、切腹の作法も習いました。
近所の人も赤紙で出征し、次々に亡くなっていきます。米軍の空襲にも遭い、爆弾がいつ降りかかってくるか分からないと感じました。空爆から逃れても、やがては自分も出陣し、戦死する。

死んだらどうなるか、真剣に考えずにおれません。

地獄・極楽は有るのか無いのか、毎日のように友人と言い合いましたが、結論が出るはずもありませんでした。

小学生ながら、
「寺に聞いたら、答えが分かるかもしれない」
と思い、東京には少ない真宗寺院を、やっと一軒探し当てました。

しかし、出てきた坊守(住職の妻)は、
「一生懸命、学校の勉強をしなさい」
と言うばかりで、まともに答えてはくれませんでした。

父の転勤に伴い、11歳で石川県金沢市に移ってからも、市内の寺院を何十ヵ寺も、自転車で訪ね回りました。説教があると聞けば出掛けていったのです。

おじいさん、おばあさんに交じって、小学生の私が聞法しているので、周囲の人から、
「きみは戦争孤児かね」
と、よく聞かれました。中学、高校のころには、どこかの寺の跡継ぎかと思われていたようです。

懸命に聞き歩きましたが、死ねばどうなるのか、ハッキリ答える布教使がありません。

世間話でお茶を濁されるか、
「ツルの足は切るのじゃないぞ、カメの足は足すのじゃないぞ、案ずるな、煩ろうな、計らうな、心配するな、そのままじゃぞー」
と、要の抜けた節談説教ばかり。

金沢市外の寺へも出掛け、仏教書も探し歩きましたが、満足できる答えは皆無でした。

高校卒業後、大手保険会社に就職しましたが、社会人になってからも、本当の親鸞聖人の教えを説く布教使を探し求める日々が続きました。

目のさめるような説法

昭和28年、20歳の時です。近所のおばあさんが、
「勝光寺(金沢市森本)に若い布教使さんが来ておられるよ。あんたも若いし、一ぺん、聞いて来てみまっし(聞いてみなさい)」
と勧めてくれたのです。

これが高森顕徹先生との出会いでした。先生は24歳、教誨服のスラッとしたお姿で、『真宗聖典』を手に、黒板を駆使してお話しくださいました。こんなスマートな説法は初めてだと感じたのを覚えています。

始まる前にすでに、

心常念悪
口常言悪
身常行悪
曽無一善

と黒板に書いておられ、ご法話で説明してくださいました。

お釈迦さまや親鸞聖人のお言葉を示されての、理路整然としたお話に、
「この方は違う」
と感じました。説得力がまるでちがう。

一つ一つに仏教の根拠がある。これはホントだ、真実だ、と心が叫んでいました。

同じ布教使の話は二度と聞こうとしなかった私が、それからは高森顕徹先生に、聞かせていただくようになったのです。

勝光寺についてはこちらの記事もお読みください。

控室で一対一

高森顕徹先生は金沢市内のほかの寺にも、説法に来ておられました。月に、4、5回は石川県へお越しになったと思います。

年配の人ばかりで、若者は私一人だったからでしょう、お昼のご説法を終えて控室に戻られる際にはいつも、私を手招きして呼んでくださいました。そして、夜のご法話までの約2時間、一対一でご教導くださったのです。

初めて控室へお伺いした時には、
「『ケシ粒の中に、三千大千世界を入れて、広からず狭からず』、この意味が分かるかね」
と、問いを投げかけられました。返答に窮していると、
「実は、私も学生時代、夏休みの宿題に出されてね……

とおっしゃって、大宇宙がなぜ、ケシ粒に収まるのか、お話しくださいました。先生が初めて、仏法の底知れぬ奥深さを知られたお言葉だったので、私にも話してくださったのだと思います。

また、ある時は、
絞首刑にされた東条英機と同じように、私たち一人一人が、死刑の宣告を受けているのだ。しかし、それに気づいていないのが、人間の実態なのだよ
と教えてくださいました。戦犯の裁判のあとでした。

「廃立(はいりゅう)とは、どういうことですか」
とお尋ねしたこともあります。高森先生にお会いする以前に、ある坊さんが説教で、
「当流は廃立肝要なり」
という『御遺言鈔』のご文を出したのですが、説明がなく、本屋で調べても分からず、ずっと気になっていたからです。

先生は、
“廃”は廃物の廃、捨てものです。”立”は、立てるということで、拾いもの。この世には、拾いものと捨てものがあるのです。信ずべきものを拾い、捨てるべきものを捨てる。廃立を実行しなければ、弥陀に救われないのですよ
とお答えくださいました。一向専念無量寿仏しかない。弥陀一仏しかない。三重廃立のお話を聞かせていただくたびに、その時のことがハッキリと思い出されます。今日では考えられぬ、尊いご縁を数々頂きました。

菊池さん宅で

「戸出(現・富山県高岡市)にも出ていらっしゃい」
と、高森顕徹先生自ら、菊池さん宅のご法話にも誘ってくださいました。
前田町の会館もなかった時代、貸本屋を営んでいた菊池さんのお宅が、徹信会(親鸞会の前身)の事務所でした。

店の後ろに、畳の部屋が二間あり、ご説法は手前の部屋で聞かせていただきました。参詣者は、十数人だったと思います。
月に1、2回、土曜の夜の座談会と、日曜のご法話がありました。私は土曜の仕事を終えて、国鉄(今のJR)で金沢から高岡へ駆けつけました。座談会は夜遅くまであることもありました。

高森顕徹先生が休まれたのは、奥のお部屋でした。冬は炬燵を置き、その四方に布団を敷いて、先生と一緒に私も炬燵へ足を突っ込んで、休ませてもらいました。日曜の夜も宿泊させてもらい、月曜の朝に起床して、金沢の会社へ出勤したものです。

編集後記

Kさんが語られた、戦前、戦後の混乱期の中で説い続けた「死んだらどうなるのか」という根源的な問い。当時から明確に答えられる方は皆無だったことが知らされます。

平和な時代になり、どんな情報でも手に入る現代でも「死んだらどうなるか」の問いに、明確に答えている人は雨夜の星です。

私たちはそのような中、今、阿弥陀仏の本願を聞かせていただけることは決して当たり前のことではありません。

これからも浄土真宗親鸞会金沢会館で、真剣に阿弥陀仏の本願を聞かせていただきましょう。

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