親鸞聖人と妙順寺の智海坊(西念)との出会いについて

福井県越前市に、浄土真宗の開祖・親鸞聖人ゆかりのお寺、鷺森山妙順寺があります。

親鸞聖人が流罪にあい、越後に赴かれる途中に寄った場所だと言われます。

今回は、妙順寺の智海坊(西念)と親鸞聖人について寺伝をもとに紹介します。

目次

始まりは、武将の子が建てた「弔いの寺」

妙順寺の始まりは、平安時代末期の有名な武将「斎藤実盛」の次男・六郎にさかのぼります。

父の実盛が戦死した後、六郎は深い悲しみの中で仏門に入ることを決意しました。奈良の東大寺で出家し、「智海坊」という法名を名乗るようになります。

そして寿永3年(1184年)、智海坊は現在の福井県越前市中新庄町にあたる場所に小さなお堂を建てました。これが妙順寺の前身となる「佗明寺」の始まりです。

寺の記録にはこう書かれています。

開基斎藤別当実盛二男、永井斎藤六、於南都東大寺出家、号智海坊。寿永三年五月上旬、至越前国今南西郡今立郡之事、於新郷村中新庄村之事一宇建立之、号佗明寺、学真言。

出典:『鯖江藩寺社改牒』

意訳:父が亡き後、六郎は奈良の東大寺で出家し、智海坊と名乗りました。そして寿永3年(1184年)5月、現在の越前市中新庄町にあたる場所に一宇を建立します。この時の寺の名前は「佗明寺」といい、宗派は真言宗でした。

智海坊がこの地にとどまったのは、戦で亡くなった斎藤一族の霊を弔うためでした。

当時の寺院事情

現代と違い、明治時代まで、寺院は一つの宗派に固定されていませんでした。一つのお寺でいくつもの宗派の教えを学び、説くことができたのです。

奈良の東大寺も「八宗兼学の寺」と呼ばれ、八つの宗派が学べる総合的な学問の場でした(現在の東大寺は華厳宗です)。智海坊も東大寺でさまざまな仏教を学びましたが、佗明寺では特に真言宗の教えを中心に説いていました。

ところで、智海坊の父である斎藤実盛は、平家物語にも登場する非常に有名な武将でした。

その人生には、息子の智海坊が出家を決意するほど深い無常観を感じさせるエピソードがあります。

斎藤実盛について

越前国南井郷(現福井県鯖江市)に生まれた実盛は、後に源氏軍として活躍し、平治の乱では坂東武者の一員として、熊谷直実と共に平家と戦い、多くの手柄を立てました。

実盛の人生で最も重要な出来事は、まだ幼い木曽義仲(幼名:駒王丸)との出会いでした。

源氏の内紛で父を失い、命を狙われていた幼い木曽義仲を、実盛は哀れに思い、密かに信濃(長野県)の山奥へと逃がしてやったのです。実盛はまさに木曽義仲の命の恩人でした。

しかし、時代は変わります。源氏が衰退し、平家が天下を握ると、実盛も生き残るために平家に仕えることになりました。領地と領民を守るためには、やむを得ない選択だったのです。

そして2人は悲劇的な再会を迎えます。

寿永2年(1183年)、加賀国篠原の戦いで、ついに2人は敵同士として戦場で向き合うことになります。

かつて自分が救った木曽義仲が、今度は平家を討つ源氏の大将となって現れたのです。

70歳を超えた老武者・実盛は、最後の戦いに臨んで、ある覚悟を決めました。

「老いぼれたと侮られては、武士の恥」

そう言って、真っ白になった髪を墨で黒々と染め上げ、主君から賜った美しい錦の鎧を身にまとい、まるで若武者のような姿で最後の戦場へと向かったのです。

激しい戦いの末、実盛はついに討ち取られました。

木曽義仲のもとに届けられた首を見て、実盛と長年懇意のあった家臣の樋口兼光が「これは、斎藤実盛です。」と涙ながらに告げても、義仲は信じられません。

なぜなら、顔は老人にみえましたが、髪は黒黒とし、年齢に合わないからです。

そこで池の水で首を洗うと、墨が流れ落ち、真っ白な髪が現れました。

その瞬間、この老武者こそ、自分の命を救ってくれた大恩人・斎藤実盛だと確信しました。

義仲は人目もはばからず、声をあげて泣いたと伝えられています。

この父の壮絶な最期を知った息子の六郎(智海坊)は、「武士として生きることの無常さ」「この世の移り変わりの激しさ」を痛感し、真実の幸福を求めて仏門に入る決意を固めたのです。

親鸞聖人との運命的な出会い

寺の運命が大きく動いたのは、承元2年(1208年)のことです。智海坊と親鸞聖人との出会いが、次のように書かれています。

其以後承元二年三月、親鸞聖人北国左遷之刻、右佗明寺二止宿。其時之住持、親鸞之弟子と成、号西念。

出典『鯖江藩寺社改牒』

意訳:その後、承元2年(1208年)3月に、親鸞聖人が北国に配流された際、この佗明寺に宿泊された。その時の住持は親鸞聖人の弟子となり、西念と号した。

越後へ向かう途中の親鸞聖人が、「車の道場」で布教されている間に、近くの佗明寺に立ち寄りました。

車の道場は以下の記事をお読みください。

親鸞聖人から、阿弥陀仏の本願を聞いた智海坊は、すぐにお弟子となり、名を「西念」と改めました。

その後も、親鸞聖人の教えを伝え続けたと言われています。

「妙順寺」への改称

寺の名前が「妙順寺」に変わったのは、寺伝によると、智海坊が親鸞聖人の弟子となってから360年以上も後といわれます。

其後織田信長公、越前国主朝倉義景を乞給。其節佗明寺と難名乗故有之。因是本願寺五代已前顕如上人之代、天正二年八月五日、妙順寺と相改申候事

出典:『鯖江藩寺社改牒』

意訳:その後、織田信長公が越前国主朝倉義景を攻めた際、佗明寺という名前では都合の悪い事情があった。そのため、本願寺の顕如上人の時代である天正二年(1574年)八月五日に、妙順寺と改名することになったのである。

これは石山合戦の際に、顕如上人のもとへ駆けつけ阿弥陀仏の本願を守る戦いに参戦した功労として、顕如上人から山号の鷺森山をたまわり、妙順寺への改名をしたといわれています。

妙順寺は、時代を超えて親鸞聖人の教えを守り抜いてきた、歴史があるのです。

編集後記

親鸞聖人と出会い、阿弥陀仏の本願を聞かせていただいた智海坊(西念)にとって、お寺は死者を弔う場所から、未来永劫の幸福をいただく「真実の救いを説く場所」へと生まれ変わったのです。

智海坊の教えを守る気持ちは、後の時代にも強く受け継がれました。石山合戦の際に妙願寺の住職は、福井から顕如上人のもとに駆けつけるほど阿弥陀仏の本願を守り抜く気持ちが強かったのです。

このように、親鸞学徒の先輩たちが、親鸞聖人の教えに深く感動し、その喜びを伝え、命がけで守り抜いてくださったおかげで、私たちは今も北陸の地で仏法を聞くことができるのです。

これからも浄土真宗親鸞会金沢会館で、阿弥陀仏の教えを真剣に聞かせていただきましょう。

よかったらシェアしてね!
  • URLをコピーしました!
  • URLをコピーしました!
目次