今回は、北陸にある出雲路派・毫攝寺の開基とされる乗専と、覚如上人との関係について紹介します。
出雲路派毫攝寺とは
北陸・越前(福井県越前市清水頭町)にある、真宗十派の一つ・真宗出雲路派の本山が毫攝寺です。
もともとは現在の京都市北区にあたる山城国出雲路の地に、のちに「毫攝寺」と称する坊舎が営まれ、これに由来して「出雲路派」と称されるようになりました。
寺伝には二つの由来説があります。一つは、親鸞聖人が出雲路に毫攝寺を草創し、長子・善鸞に譲ったとする説。もう一つは、本願寺第三代・覚如上人が高弟の乗専に寺号を与え、門下の僧が出雲路に坊を開いたとする説です。
後者の方が史実に近いと言われますので、後者について紹介します。
乗専(じょうせん)
毫攝寺の開基と伝わる清範法眼・乗専は、文永十一年(1274)に生まれ、83歳で亡くなられたと伝えられています。
丹波国・六人部(むとべ)の城主・和気清麻呂の後裔と伝え、従四位下・高橋刑部少輔・高景の次男であり、母は越前国・管氏の出、兄に和泉守・盛永がいたとされます。
幼少で出家して清範法眼と号し、天台・真言・禅の三宗を兼学、経典に通達していました。のちに山城国出雲路(京都市上京区付近)に住して庵を結び、後醍醐天皇の勅願により「後青庵」の額字を賜ったと伝えます。
学識・行歴に優れた乗専でしたが、自力修行の限界に深く思い悩みました。
覚如上人との出会い
その折、本願寺の覚如上人に遇い、親鸞聖人の教え・阿弥陀仏の本願を聴聞して、これこそすべての人を救う真実の仏教であると知らされ、深く帰依しました。
覚如上人から「乗専」の名を賜り、上足(もっとも優れた門弟の意)と称され、師の側近として仕えます。出雲路の庵を本願寺に寄進し、覚如上人の別名である「毫攝」を寺号として掲げることが許されました。これらの事跡からも、師弟の結びつきの強さが窺えます。
また、寺伝によれば、乗専はのちに覚如上人の第四子・善入を住職に迎えたとも伝えます。
乗専は覚如上人を大変お慕いし、生涯御恩を忘れませんでした。
乗専の主な功績
乗専は覚如上人の口伝・著述の伝承者として、『口伝鈔』『改邪鈔』などの書写・伝持に関わったとされます。
『口伝鈔』の執筆
元弘元年(1331)の親鸞聖人報恩講で、覚如上人が浄土真宗の肝要を口述されました。
乗専がこれを書き留めて『口伝鈔』三巻となりました。のちに覚如上人が改訂して書写したため、覚如本系と乗専本系の二系統に分かれます。
『改邪鈔』の執筆
この書は、当時、真宗教団内に広まっていた間違った教え(邪義・異義)を正すために書かれました。
きっかけは、乗専が発願者(願主)となり「間違いを正すためにご教導を書にしていただけないでしょうか」と、師である覚如上人に願い出たことです。
制作は、覚如上人が口頭で教えを述べ、それを受けて乗専が書き記す、という方法で行われました。
『慕帰絵詞』の発起
覚如上人がお亡くなりになられてから九か月後、その遺徳を後世に伝えるべく、乗専は『慕帰絵詞(ぼきえことば)』の制作を発起(企画・提案)しました(『慕帰絵詞』巻十・第一段)。完成は覚如上人の次男・従覚を中心に進められました。存覚上人も関わっているとの説もあります。
「慕帰」の題名については次の趣旨が述べられます。
「さて慕歸と題する心は、彼の歸寂を戀ふが故に、此の後素の名とし侍り」
意訳:覚如上人の帰寂を深く恋い慕うゆえ、この書に「慕帰」と名付けた
「慕帰」という題名は、覚如上人の帰寂を慕うことに由来しているのです。
『最須敬重絵詞』の執筆
翌年に乗専は『最須敬重絵詞(さいしゅきょうじゅうえことば)』の制作を自ら行います。分量は『慕帰絵詞』より少なく、平易な文で、総ふりがなを施すなど、広く一般に伝えることを志した構成が特徴です。
乗専は覚如上人を「尊老」と敬称し、その徳を讃えています。
「最須敬重」の語は、善導大師の『観無量寿経疏』序文義の趣旨に拠るとされます。
敎示禮節學識成德因行無虧乃至成佛此猶師之善友力也此之大恩最須敬重
出典『観無量寿経疏』(序文義)
大意:師に奉事して礼節・学識・徳を成し、修行がついには成仏へと至るのは、師・善知識の力による。この大恩は最も敬い重んずべきである。
この一文に感銘を受け、「最も敬い重んじるべき(最須敬重)」という切実な思いから、浄土真宗の教えを要約された覚如上人のご功績やご生涯を自ら書き記されたのです。
北陸の毫攝寺について
第5代(または第4代)の善幸の時代、京都では大きな戦乱が起こりました。
この戦乱によって、京都の出雲路にあった毫攝寺は、残念ながら破壊され、滅びてしまったといいます。
寺を失ったため、善幸住職の3人の息子たちは、別々の場所へ避難することになりました。
このとき善幸には3人の子どもがおり、長男・善秀は京都にとどまりました。二男・善鎮と三男・善智は父と親しかった知人を頼って、越前の横越にある證誠寺という寺に世話になることになりました。
その後、長男・善秀は、摂津(現在の大阪府・兵庫県の一部)の小濱(こはま)に、二男・善鎮は、越前(現在の福井県)の山本庄に、そして三男・善智は、加賀(現在の石川県)に寺を建立し、それぞれ「毫攝寺」という名前を付けたのです。
こうして、同じ名前を持つ「毫攝寺」が、各地に誕生することになりました。
このうち北陸毫攝寺の善鎮と、蓮如上人について、次の記事は、こちらです。

編集後記
禅門に学びつつも自力修行の限界を痛感した乗専は、覚如上人の導きにより、親鸞聖人の教えに出遇いました。
乗専の覚如上人への感謝と尊敬の念は深く、覚如上人の著作を形として残し、乗専のご苦労もあり、現代の私たちにまで正しい親鸞聖人の教えが届けられました。
親鸞学徒の先輩のご苦労に感謝し、これからも浄土真宗親鸞会金沢会館で阿弥陀仏の本願を聞かせていただきましょう。
