親鸞聖人と「車の道場」誠照寺 − 北陸での初めての説法の地

親鸞聖人が北陸でどのような活動をされたか、当時の詳しい記録はほとんどありません。

しかし、聖人が訪れたとされる場所には数多くの伝承が今も息づいており、それこそが聖人の確かな足跡を物語っています。

そして、人々の間で語り継がれたこれらの物語が、のちに北陸が「真宗王国」と呼ばれるほど教えが盛んになるための、大切な土台となったのです。

今回から、伝承として語り継がれている親鸞聖人の北陸布教の様子を一部ご紹介します。

目次

親鸞聖人の北陸での足跡

親鸞聖人の足跡は、北陸道沿いに福井県から石川県、富山県へと北上し、最終的に新潟県に至るまでの各地に、現在でも深く刻まれています。

伝承が残っている地域は、実際に親鸞聖人が越後国(現在の新潟県)に向かう途中で立ち寄られた場所として、聖人と深いつながりがあったと考えられています。

最初に、北陸で初めて説法されたといわれる、「車の道場」について紹介します。

越前(福井県)での出会いと「車の道場」

親鸞聖人が北陸で初めて教えを説かれたのは、福井県鯖江市本町にある誠照寺です。この寺院は浄土真宗誠照寺派の本山でもあります。

 波多野右京進景之の帰依

親鸞聖人は滋賀から越後に向かう途中、愛発山や木ノ芽峠といった難所を越え、越前国を通られました。

聖人が鯖江(上野ヶ原)を通りかかられた際、この地には波多野右京進景之(はたのうきょうのしんかげゆき)という豪族がいました。

景之は、以前京都で親鸞聖人の説法をお聞きしたことがあり、、聖人が近くをお通りになると聞き、いても立ってもいられませんでした。

親鸞聖人になんとしても景之の別邸でご説法をしていただきたいと頼み込み、聖人をお招きしました。

その後、親鸞聖人は近くの神社に集まっていた人々にも説法され、多くの人が阿弥陀仏の本願を聞くようになったと言われています。

深く感銘を受けた景之は親鸞聖人に帰依して「空然」という法名を賜り、その別邸を人々に阿弥陀仏の本願を勧めるための道場としました。

「車の道場」の名前の由来

誠照寺の古文書には、

ここに聖人、輿をよせ車を止めたまひし由緒を以て世人呼んで車の道場と伝ふ

と記されています。

一見、「輿」と「車」が混在していて矛盾しているように思えます。しかし、当時の乗り物を考えると納得がいきます。

親鸞聖人のような身分の人が罪人として送られる際、「板輿」という乗り物が使われたと考えられています。

これは「手輿(たごし)」とも呼ばれ、京都の中心部では担ぎ手が前後3人ずつで担いで進みました。 

しかし、都を出ると、役人たちの負担を軽くするために輿の下に車輪を取り付けて引いていったようです。

編集後記

当時、京都で広まっていた阿弥陀仏の本願は、旧来の仏教勢力から反感を買い、朝廷によって禁止されてしまいました(承元の法難)。

そして親鸞聖人は、越後(現在の新潟県)へ流罪となってしまいます。

これまでの流れは、映画『親鸞 人生の目的』も御覧ください。

しかし親鸞聖人は、意気消沈するどころか、喜び勇んで新潟へ向かわれます。

新潟へ向かう途中であっても親鸞聖人は、多くの人に仏法を伝えられました。

その一つ一つの種まきが、のちに北陸における浄土真宗の隆盛につながり、現在の北陸の親鸞学徒にまで教えが届く礎となったのです。

大変な苦難の中でも伝えてくださった聖人の御恩に感謝し、浄土真宗親鸞会金沢会館で阿弥陀仏の本願を聞かせていただきましょう。

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