越前の地に真宗の灯を灯した道性

今回は、真宗山元派(現在の真宗山元派本山・證誠寺)の実質的な開基とされる道性について紹介します。

三河国(現在の愛知県東部)に生まれた道性は、師・如道の教えのもとで越前の地へと赴き、阿弥陀仏の本願を精力的に広めました。そして師の後継者たちが教義を歪めていく中で、親鸞聖人の純粋な「絶対他力」の教えを守り抜くために、孤独な戦いを続けた人物です。

目次

山元派證誠寺とはどんな寺か

真宗山元派の本山・證誠寺は、現在、真宗十派の一つとして知られています。北陸の誠照寺・専照寺・毫摂寺とともに「越前四箇本山」の一角を形成する、由緒ある寺院です。

證誠寺の寺伝(縁起)によれば、その起源は鎌倉時代の承元元年(1207年)にまで遡るといわれています。いわゆる「承元の法難」によって親鸞聖人が越後国(新潟県)へと流罪になる途上、越前国今立郡の山元の庄(現在の鯖江陸軍墓地付近にある「車の道場」)に立ち寄り、人々に阿弥陀仏の本願を説かれたことが、開山の基盤とされています。

その後、親鸞聖人が関東や北陸での巡化を終えて嘉禎元年(1235年)に上洛されると、越前の門徒たちは聖人の再来を熱望しました。しかし、当時63歳と高齢であった親鸞聖人は自ら赴くことが困難であったため、長子善鸞に御影や真筆の名号を託し、「我に代りて山元の庄に行化せよ」と命じて下向させたとも伝えられています。

寺伝ではこのように伝えられていますが、善鸞らの帰参については伝説とされ、実際の開基は「道性」といわれています。


道性の出自と三河時代

道性は、三河国(現在の愛知県東部)の出身であったといいます。

親鸞聖人がご在世のころ、三河地域には「和田門徒」と呼ばれる熱心な親鸞学徒たちが誕生していました。道性も、そうした信仰の篤い土地の空気の中で育ち、阿弥陀仏の本願に深く引き寄せられていったのでしょう。

愛知県知立市に現存する称念寺は、道性が創建したと伝えられており、かつては同寺に道性の木像が安置されていたといいます。道性はすでに三河の地で一定の布教活動を行っていました。

しかし、その人生に大きな転機が訪れることになります。

師・如道との出会い、越前へ

三河出身の道性が、遠く離れた越前の地で大きな勢力を持つに至った最大の契機は、「大町門徒」の開祖である如道(1253年〜1340年)の弟子となったことでした。

如道は北陸で活躍していた人物ですが、もとは三河の円善の弟子でした。その縁によって、道性は如道と出会い、師事することになったのです。

如道は、越前・加賀方面で絶大な影響力を誇った指導者の一人でした。

彼を中心として形成された集団は、後に「三門徒」と呼ばれる巨大な教団へと発展していきます。この三門徒の流れを汲むのが、現在の真宗三門徒派(本山:専照寺)や真宗誠照寺派(本山:誠照寺)です。

道性は、この如道の高弟として頭角を現していきました。

如道の教化力は強く、道性は間近で学び、やがて自らも教団を形成していくことになります。

師の後継者たちの変質と道性の決断

しかし、道性の人生に暗い影が差し込んでくる時がありました。

師・如道が遷化した後、大町門徒(専修寺)の主導権は、如浄や良金といった後継者たちに引き継がれました。ところが、これらの後継者たちは次第に「浄土宗の教義」へと傾倒していったのです。

親鸞聖人は、人生を「苦しみの絶えない荒波の海(難度海)」と言われています。そしてその海を明るく渡らせてくださる大きな船こそが、「阿弥陀仏の絶対の救い(大悲の願船)」であると説かれました。

この大船に乗せていただくことを信心獲得といい、死によっても絶対に崩れない「絶対の幸福(無上の幸福)」を得られると教えてくださったのです。

これに対し「浄土宗の教義」では、自らの努力で幾度も念仏を称え、功徳を積もうとする「自力」の念仏行が強調されます。

専修寺の中枢が、親鸞聖人の純粋な「絶対他力」の教えから離れ、「自力的な浄土宗教義」へと接近していく様子を、道性は目の当たりにしました。

これは道性にとって、単なる組織の方針転換や派閥争いではありませんでした。

門徒たちを地獄に堕とすこととなる、教義上の重大な逸脱(異安心)に他ならなかったのです。

道性はこの状況に激しく反発し、独自の道を歩む決意を固めます。

これが今日まで続く證誠寺の始まりでした。

道性の北陸での布教活動

道性が越前において最初に拠点としたのは、現在の福井県鯖江市水落・北野・小黒の一帯に広がる「山本庄(山元庄)」でした。この「山元」という地名が、現在に至る「真宗山元派」という宗派名の直接的な由来となっています。

道性の布教活動は非常に精力的なものでした。彼が率いた門徒集団は、山本庄を起点として近江(滋賀県)や美濃(岐阜県)にまで影響を及ぼす大きな勢力へと成長しました。

この道性を頂点とする門徒集団は、後に寺基を移転した地名から「横越門徒」と呼ばれるようになります。

また道性は、京都の本願寺とも縁を深め、第三代宗主・覚如上人の子である存覚上人とも親交を結んでいました。貞和2年(1346年)に存覚上人が義絶されると、道性は自らの京都の寄宿所に存覚上人を滞在させました。また横越門徒に対して存覚上人の名で本尊を下賜するなど、その交流は非常に深いものがあったといいます。

存覚上人による聖道仏教に対する布教力は強力であり、道性もまた多くを学び、聖道仏教の根強い北陸地方で浄土真宗を伝えたのでした。

しかし道性の死後、越前全土では秘事法門などの異安心がはびこり、その煽りも受け、徐々に證誠寺における親鸞聖人の教えも乱れていくのでした。

そして真実の教えを求める沢山の真宗難民が現れました。それらの多くが後年、蓮如上人のもとに帰参し、親鸞学徒となっていくのです。

編集後記

道性の生涯は、親鸞聖人の教えを守り伝えることへの深い信念に貫かれていました。

カリスマ的な覚如上人に師事する如道を慕い、存覚上人からも教えを受け、越前から近江にかけて広範囲で教えを伝えていきます。

共に学んできた仲間が浄土宗に傾いていき、周囲に誤った教えが広まっていく中でも、道性は揺らぎませんでした。親鸞聖人の教えをしっかりと学んでいたからこそ、何があっても動じることなく、聖人の教えをそのままに伝え続けることができたのでしょう。

親鸞聖人の教えを正しく聞き、正しく学ぶこと。それがどのような悪縁に出遇っても、自らの聞法を守る最大の盾となるのです。

これからも浄土真宗親鸞会金沢会館で、阿弥陀仏の本願を真剣に聞かせていただきましょう。

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