黎明期の証言 「森本から津幡へ」 

『顕真』平成16年6月号を参考に、浄土真宗親鸞会、黎明期の証言を紹介します。

前回の記事はこちらです。

目次

法灯は津幡町へ

法灯は、金沢市の北、津幡町へ飛び火した。同町に住むOさん(前記事で紹介したTさんの妹)が、熱心な親鸞学徒になったのだ。

寺と縁を切り『顕正新聞』を近所に配って法施すると、村の半分が読むようになったという。

それを知られた高森先生は、

「津幡をよろしく頼むよ」

と、Oさんにおっしゃったという。

Oさん宅での家庭ご法話

Sさんの証言

『広く仏法を伝えるには、若い人の力が必要だ』というのが、Oさんの口癖でした。Oさんのおかげで、仕事と村の青年団の活動ばかりしていた私も、仏縁を結べたのです。

昭和四十四年に、Oさんが初めて自宅に高森先生をご招待した時、私の母が参詣しました。その時、高森先生に、

『どうしたら、息子に仏法を聞かせられるでしょうか』

と、質問させていただいたようです。すると、

『親鸞会の講師を招待し、ご法話を開きなさい』

とおっしゃり、母は早速、実行しました。

土肥佳子講師(旧姓・北川)が法話に来られる当日、それでも私は、村の青年部の行事に行こうとしました。

母は、

『おまえに聞かせてやろうと思って講師に来ていただいたのに、何で出掛けて行くんや』

と目を釣り上げる。

友達の前で大きな声で怒られて、かっこ悪いし、仕方なく聞くことにしました。

仏教の講師だから、私は、六十か七十の年寄りを想像していたのですが、若い女性だったので驚いて、どんな話をするんだろうと思いました。弥陀の本願を分かりやすく説かれ、続けて聞かなければと思ったのです。

金沢で青年親鸞学徒の増加

森本方面に比べ、金沢中心部の寺でのご法話は、参詣者が極端に少なかった。

ほぼ十年間、平日は五、六人だったという。

当時、金沢大学三年だったFさんは、

「近所のおばあちゃんが、二、三人参詣しているような状態でした」

と証言する。

Kさんも、

「高森先生に申し訳ないので、ご法話を中止したほうがいいと思ったくらいです」

と語る。

高森先生はそのころ、Tさんに、こんなお葉書を出していらっしゃる。

「三朝浄土の大師等

哀愍摂受したまいて

真実信心すすめしめ

定聚の位にいれしめよ

聖人でさえ三朝浄土の聖衆の加備を求めておられます。」
(昭和39年5月)

「他人の後生ではあるまいに何故に解決のつくまで求め切らないのでしょう。

導く知識が悪いのか、求める人がいないのか。

噫…いかに宿善まかせとはいいながら…」

(昭和41年4月)

しかし、高森先生の堅実なご布教でやがて、後に石川青年の親鸞学徒の中心となるNさんやSさんたちが、徐々に仏法を聞くようになる。

Nさんの証言

「義理の両親が南森本に住んでおり、勝光寺に参詣しました。

 私は、人生の苦しみをギャンブルでごまかしていたのですが、昭和四十三年ごろ、義母から、

 『仏法を聞きなさい。そうでなければ、あんたの悩みはなくならない

 と言われて聞き始めたのです。

三世因果のご説法をお聞きし、『何てスケールの大きいお話だろう』と思いました」

Sさんの証言

「私は、近所のおばあちゃんに勧められて、昭和四十二年に、自宅近くの静心寺で、高森先生のご説法をお聞きしました。
 昭和44年から、Aさんらと聞法するようになり、その後、数年で、青年の親鸞学徒が数十人になりました」

ここから、わずかしかいなかった石川青年の親鸞学徒が増え、それぞれが活躍していくことになる。

このような青年の親鸞学徒の増加は、全国的な流れでもあった。

編集後記

仏法を聞く人があまりいなかった金沢に、堅実に、一人一人に仏法が伝わっていったことがわかります。

特に若い人たちへの広がりをみると、親鸞聖人の教えは老若男女問わず、求めなければならない教えだと改めて知らされました。

これからも浄土真宗親鸞会金沢会館で、阿弥陀仏の本願を真剣に聞かせていただきましょう。

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