蓮如上人が吉崎御坊を建立した理由

吉崎御坊跡

今回は、蓮如上人が、吉崎御坊を建立し、北陸布教を決定された理由について調べましたので、紹介いたします。

目次

吉崎御坊建立前の状況

蓮如上人は、本願寺法主を継がれてから8年後、寛正6年(1465年)1月9日、比叡山延暦寺の衆徒たちによって、京都にあった大谷本願寺は、壊され、京都を拠点とする布教は困難となりました。(寛正の法難)

それだけではなく蓮如上人は、延暦寺の衆徒から命を狙われ続けることとなります。

そのため蓮如上人は近江の門徒を頼り、大津北部にある堅田の本福寺にしばらく滞在されました。

しかし1468年には、幕府と延暦寺により堅田全土が焼き討ちにあい(堅田大責)、近江でのご布教も大変な状況が続きました。

蓮如上人は、堅田の法住や大津の外戸の道覚といった親鸞学徒の協力を得ながら、拠点を転々とされています。

そのような中、文明元年(1469年)に、門徒の支援のもと、近江顕証寺を創建され、近江地方における初期の拠点ができ、長男の順如上人が、住持しました。

順如上人については、こちらの記事を御覧ください。

顕証寺の名前(寺号)は、後に大阪久宝寺の顕証寺に引き継がれ、近江顕証寺は現在近松別院と呼ばれています。

比叡山延暦寺が近くにありながら近江に拠点を設けられたのは、延暦寺と対立していた園城寺(大津三井寺)の庇護を受け、園城寺の領地内に建立したからでした。

蓮如上人は、度重なる延暦寺の衆徒に命を狙われながらも、布教の足をとめることなく、近畿圏や関東、三河・尾張へと布教されています。

そのような中で、なぜ越前に吉崎御坊を建立し、北陸布教に旅立たれたのでしょうか。

御文章の記載

大津三井寺(吉崎建立章)と呼ばれる御文章1帖目第8通には、以下のように書かれています。

文明第三初夏上旬のころより、江州志賀郡大津三井寺南別所辺より、なにとなくふとしのび出でて、越前・加賀諸所を経回せしめをはりぬ。よつて当国細呂宜郷内吉崎といふこの在所、すぐれておもしろきあひだ、年来虎狼のすみなれしこの山中をひきたひらげて、七月二十七日よりかたのごとく一宇を建立して、昨日今日と過ぎゆくほどに、はや三年の春秋は送りけり。

引用:『御文章1帖目8通』

意訳:1971年に、近江国志賀郡(現滋賀県大津市付近)の大津にある三井寺の南別所あたりから、何となく、ひそかに出発し、越前国(現・福井県付近)や加賀国(現・石川県付近)などの各地を巡り終えました。そして、この加賀国の細呂宜郷(ほそろぎごう)内にある吉崎という場所が、とりわけ素晴らしかったので、長年虎狼が住み慣れているような未開の山中を整地し、7月27日から、いつものように1つの坊舎を建立しました。そうしているうちに、昨日今日とあっという間に時が過ぎ、早くも3年の歳月が流れてしまいました。

また帖外御文には、以下のようにあります。

越前國加賀さかひなかゑせごゑの近所に細呂宜の郷の內吉崎とやらんいひて、ひとつのそびえたる山あり。その頂上をひきくづして、屋敷となして一閣を建立す(中略)をそらくはかゝる要害もよくおもしろき在所よもあらじとぞおぼへはんべり

文明5年8月2日

引用:『帖外御文』

意訳:越前国と加賀国の境界にある中江瀬戸(なかえせと)の近くに、細呂宜(ほそろぎ)の郷の中に吉崎という場所があり、そこにひとつの高くそびえ立つ山がありました。その山頂を平らに整地して屋敷とし、そこに一つの建物を建てました。(中略)おそらく、このような要害(防御に適した場所)で、かつこれほど素晴らしい場所は他にないだろうと思いました。」

北國におもむきし由来は、またく、名聞利養のためにあらず、また栄花栄耀をもことせず。そのゆへは大津にひさしく居住せしむるときは、ひとの出入にかけても萬事迷惑の次第これおほきあひだ、所詮北國に暫時も下向せしめば、この方出入の義退轉すべきあひだ、風度下向するところなり。つぎには北國方のひとの安心のとほりもしとけなきやうにおぼゆるまゝ、覺悟におよばず、一年も半年も逗留すべきやうに心中にかねてよりおもふ

引用:『帖外御文』 

意訳:「北国(北陸地方)に向かった理由は、決して名声を得たり、物質的な利益を得たりするためではありません。また、栄華や栄誉を求めたわけでもありません。その理由は、大津に長く住んでいると、人々の出入りが多く、様々な面で迷惑なことが多かったからです。結局のところ、北国に一時的にでも下向すれば、こちらへの人々の出入りが減るだろうと考え、そのような判断で下向することにしたのです。次に、北陸の親鸞学徒の信心が心配になり、覚悟を決めて、1年か半年ほど滞在しようと、あらかじめ心に決めていたからです。

また比叡山の弾圧は強く、衝突を避けるためにも、近江とは別の拠点を急がれました。

門弟の西浦の法西が、「此地(近江)に御坊御建立あらば、寄進申すべき」と土地の寄進を打診し、蓮如上人が近江に留まるよう説得したところ、蓮如上人は、次のように答えられています。

比叡山の方を御アフギテ指セラレテ、アレガ近ソト仰ケル

引用:『本福寺跡書』

意訳:比叡山の方を仰ぎ見て指さし、あれ(比叡山延暦寺)が近いと仰っておられた」

御文章や他の記録からわかる理由は、

  • 吉崎御坊の地がとても素晴らしかったこと
  • 特に要害の地としての利点があったこと
  • 滋賀大津での布教において不便さが出ていたこと
  • 北陸地方に異安心の教えが広まり、人々の信仰を心配していたこと
  • 比叡山の弾圧がなく布教に専念できる場所を探していたこと

などがあげられます。

しかしどれだけすぐれた環境を見つけたとしても、当時、応仁の乱(1467年〜)の真っ最中であり、その余波は北陸にも及び、簡単に土地を取得できるわけではありません。

また見初めた土地細呂木郷は、他宗派の法相宗興福寺大乗院の所有する土地でした。

興福寺との交渉、さらに地元の武士団の許可を得て、吉崎御坊の土地を取得しなければなりませんでした。

また北陸の地は、ほとんど浄土真宗の別派である高田派や三門徒派の基盤があり、一見すると蓮如上人が布教に入り込める余地はないようにも思えます。

そのため、たまたま良い土地を見つけたからという程度で、土地を取得し、北陸布教を決意されたわけではありません。

どのような因縁があって、吉崎御坊の建立が実現したのでしょうか。

吉崎御坊の土地と尋尊・経覚との関係

吉崎御坊の土地は、河口庄という荘園にあり、河口庄の領主は、奈良の興福寺大乗院門跡です。

興福寺の中で、河口庄に発言権のある人は、大僧正尋尊と、前門跡の経覚でした。

実はこの二人と蓮如上人は、昔から交流がありました。

尋尊と蓮如上人に関する資料

尋尊と蓮如上人は、寛正4年6月7日に、以下の交流があります。

(本願寺)大谷二罷出、折紙三百疋遣之、寺務同入御、帰二黒谷参詣了

引用:『大乗院寺社雑事記』(寛正四・六・八)

意味:京都の東山本願寺に出向き、折紙三百疋(ひき:貨幣単位)を寄付しました。寺務(じむ)も同様に参上し、帰りに知恩院に参詣しました。

尋尊が来訪した翌日すぐに蓮如上人は、尋尊を尋ね、お礼を渡されています。

大谷来云々、馬一疋、太刀進之、昨日礼云々

引用:『大乗院寺社雑事記寛正四・六・八)

意味:蓮如上人は6月8日に尋尊のもとを訪れ、馬と太刀を進上しました。

また寛正6年(1465年)9月14日には、蓮如上人が奈良の尋尊のもとへ訪れています。

さらに文明7年(1475年)6月11日には尋尊が蓮如上人に書状を送ったという記録があります。

本願院方へ書状遣之、 賀州事

引用:『大乗院寺社雑事記』

意訳::吉崎御坊(本願寺)へ

尋尊は加賀国の尋尊の領地に関して依頼をするために、蓮如上人へ書状を送っています。

以上のことから、蓮如上人は尋尊と親しく交流していたことが伺えます。

蓮如上人は前門跡の経覚とも深い親交がありました。

経覚と蓮如上人との関係

経覚と蓮如上人は、血縁関係がありました。経覚の母親は、本願寺出身と言われています。母親の具体的な出自は明記されていませんが、経覚の生年月日を考慮し、綽如上人の娘だとされます。

そのため経覚と蓮如上人の父、存如上人は従兄弟となり、存如上人が亡くなった時、経覚は日記『経覚私要抄』の中で大変悲しんでいることを記しています。

五十余年知音、無双恩人也、周章々々

引用:『経覚私要抄』

意味:(存如上人は)五十年余りの親友で、比類のない恩人である。悲しくてどうしようもない。」

また蓮如上人は、経覚から仏教について学んでいたとも言われています。

若年ノ比為南都大乗院法務大僧正経覚門跡参候、累年学窓ニシテ螢雪ノ勤ヲハケマス

引用:『拾塵記』

意味:若い頃、南都(奈良)の大乗院の法務大僧正である経覚門跡に仕えました。長年にわたり学問の場で、昼夜勉学に励みました。

奈良ノ両門跡ニ学文等アリケレド、大乗院ニハ不断マシテ、経覚僧正ノ御師資ノ御契約タリキ

引用:『蓮如上人一期記』

意味:奈良の両門跡(一乗院と大乗院)には学問などがあったけれども、大乗院には特に盛んで、経覚僧正との師弟の契約があった。

実際に師弟の関係があったのかは、経覚の日記にもないため、判断できないのですが、蓮如上人は経覚から仏教を学んだり、様々な質問や相談事をしていたと考えられています。

蓮如上人は経覚が亡くなるまで、奈良を訪れたり、経覚が蓮如上人を訪ねたりして交流を重ねていました。

また大谷が破却されたときには、経覚は蓮如上人に手紙を送ってします。

就無礙講業事自山門東山本願院悉令破却云々、不便次第也自昨日犬神人罷向壊取云々、

亡母之里也 歎而有餘者哉、本人兼壽僧都住摂州云々、先日雖音信無返事若不通歟如何

引用:『経覚私要抄』

意味:浄土真宗本願寺の僧侶たちに関する件で、山門(比叡山)の命令により東山本願寺を尽く破壊したそうだ。まことに残念なことだ。昨日から犬神人(身分の低い神人)たちが向かって壊し取っているという。そこは亡き母の故郷だった。嘆いても余りあることだ。当の本人である蓮如上人は摂津国に住んでいるそうだ。先日連絡したが返事がない。もしかしたら届いていないのだろうか。どうしたものか。」

蓮如上人から返事があり、安否を確認できた時には「無比類承悦之由」(この上なく嬉しくてたまらない)と経覚は返事を返しています。

このように、蓮如上人は尋尊や経覚と深い交流があり、吉崎御坊建立の許可を得やすい状況であったことがわかります。

また吉崎御坊の土地周辺の状況など相談し、把握しており、経覚からも勧められたのではないか、と考えられています。

しかし、当時は荘園制度が崩壊しつつあり、興福寺の許可だけでは土地を取得できませんでした。

そこで地元の武士団との縁が重要となります。

その武士とは、経覚とも親交のあった、越前領主、朝倉敏景でした。

朝倉敏景(孝景)との関係

当時、越前国で権力があったのは、朝倉敏景(孝景)でした。

蓮如上人は、この朝倉敏景と、直接京都で面会したようです。

『反故裏書』によると、文明3年(1471年)5月、朝倉敏景は守護職の任命を受けるため京都に上った際に、敏景は初めて本願寺の蓮如上人と面会を果たしました。

両者の面会は極めて好意的なものとなり、互いの考えが一致する場面が多々あったようです。

この面会を通じて、蓮如上人は北陸地方への布教活動を展開する決意を固めた一方、敏景は蓮如上人の志に深く共感し、自身の領地内に寺院を建立する際には全面的に支援することを約束しました。

加賀国堺ナカへ・瀬越ト云ヘル近所ナル細呂宜ノ郷ト云処ヲ過ギ給フ処二、三ツノタル山アリ。名付テ吉崎山ト云ヘリ。此地二一宇ヲ建立センコト、如何有ント談合シ給へバ、皆人大ニ悦ビ(中略)

越前国ニ属シテ、則チ当国ノ大主、朝倉弾正左衛門尉敏景卿ナリト申シ上ラレケル。依テ和田ノ本覚寺、下間安芸ノ法眼トヲ以テ、朝倉ノ居城クロマルノ館へ、吉崎ノ地ヲ請ヒ給へバ、敏景大ニ悦ビ、蓮如上人ヲ尊敬ノ思と深ク、即チ時ニ一行ノ印ヲ成シテ、吉崎地ヲ上人二寄附セラレケル

引用:『真宗懐古鈔』

意味:加賀国堺長江・瀬越という場所の近く、細呂宜の郷という場所を過ぎられたところに、三つの平らな山があった。これを吉崎山と名付けられています。この地に坊舎を建立することについて、どうであろうかと蓮如上人が相談されると、皆が大いに喜びました。(中略)

この地は越前国に属しており、当主は朝倉弾正左衛門尉敏景卿のものだと申し上げました。そこで和田の本覚寺と下間安芸の法眼を通じて、朝倉の居城であるクロマルの館へ、吉崎の地を求められると、敏景は大いに喜び、蓮如上人を深く尊敬する思いから、すぐにその場で一行の印(許可の印)を作り、吉崎の地を上人に寄附されました。

朝倉弾正左衛門敏景公当国草創ノ時文明三年本願寺ノ蓮如上人当国二駕来吉崎トフ在所請フテ始テ道場ヲ建立セリ

引用:『朝倉始末記』

意訳:朝倉弾正左衛門敏景公が当国(越前国)を開いた時、文明3年(1471年)に本願寺の蓮如上人が当国に来られ、吉崎という場所に、初めて道場を建立された。

このような資料から、朝倉敏景は蓮如上人を大変尊敬していたことから、朝倉敏景が吉崎御坊の土地を寄進したと考えられています。

朝倉敏景(孝景)の聞法については、以下の記事もお読みください。

北陸布教を決定するには、その土地周辺の状況が、どういう場所だったのかも重要でした。

北陸布教の素地

天台宗の源信僧都が浄土教を弘められて以降、北陸の土地、とくに越前には、天台浄土教や、鎌倉時代に起こった時宗により、念仏信仰が盛んに行われていました。

また高田派や三門徒派により、先行して浄土真宗として教えが伝わっていました。

さらに大谷本願寺による北陸布教は、覚如上人、存覚上人の時代から積極的に行われており、特に本願寺6代目巧如上人・7代目存如上人のころに、和田の本覚寺など有力な本願寺系列の寺が建ち、熱心な親鸞学徒が多数あらわれました。

このような浄土教の歴史や、蓮如上人の父祖が築き上げた素地があったからこそ、北陸の地は、親鸞聖人の教えが弘まる土地であることを見抜かれ、蓮如上人は北陸布教を決意されたと考えられています。

蓮如上人が吉崎御坊を建立したことを聞いた親鸞学徒は、異常な興奮と感激を呼び起こしました。

蓮如上人が吉崎御坊を拠点にされたのは、5年ほどでしたが、北陸の地に、親鸞聖人の教えが燎原の火のごとく弘まっていくこととなります。

編集後記

蓮如上人の御文章には、「なにとなくふとしのび出でて」越前加賀に行かれたと書かれています。

そのため、たまたま良い場所が見つかったから、思いつきで北陸布教を始められたかのように思う人もあるようです。

しかし歴史資料に照らし合わせると、蓮如上人の北陸布教は、親鸞聖人の教えを伝えるためにはどうしたらいいか、深く考えられ、様々な人に相談し、多くの人との関わりや経験をする中で、決定されているものでした。

ここでも蓮如上人のお徳と、思慮深さと、優れた洞察力が知らされます。

現在の親鸞学徒は、親鸞聖人の教えを伝えるために、どれだけ考えて行動できているのだろうかと、改めて反省させられる思いもしました。

また蓮如上人は、吉崎へ向かわれる前年の1470年12月に、第2夫人蓮祐尼がお亡くなりになり、翌年1471年2月に長女の如慶が亡くなっています。

蓮如上人にとって非常に耐え難い状況だと思われますが、それでもご布教の歩みを止められませんでした。

蓮如上人の大変なご苦労があって北陸の地に伝わった親鸞聖人の教え、阿弥陀仏の本願を、これからも浄土真宗金沢会館で真剣に聞かせていただきましょう。

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