18歳の決断―出雲路派毫攝寺・善鎮の蓮如上人への帰参

今回は、真宗出雲路派毫攝寺の善鎮が、山科本願寺におられた蓮如上人の元へ帰参したエピソードを紹介します。


当時18歳だった善鎮の決断は、真宗史において重要な意味を持つ出来事となりました。

目次

毫攝寺の歴史

毫攝寺は覚如上人の高弟・乗専によって開かれ、山城の出雲路(現在の京都市左京区)に移転して出雲路の毫攝寺と称しました。

乗専については、こちらの記事をお読みください。

その後も順調に発展しましたが、室町時代の応仁の乱(1467年〜1477年)で京都の堂宇は焼失し、第5世善幸のとき、善鎮は母とともに越前国山元庄(現在の鯖江市水落)に向かいます。

そして毫攝寺の末寺にあたる、証誠寺に入りました。

越前三門徒と蓮如上人の対峙

一方、1471年(文明3年)7月に蓮如上人は、越前の吉崎(現在の福井県あわら市)に吉崎御坊を建立されました。

吉崎御坊を建立された状況については、以下をお読みください。

蓮如上人が特に注目したのが越前の真宗門徒、いわゆる越前三門徒でした。

越前三門徒とは、浄土真宗十派の一つで、室町時代に越前国(現在の福井県)で大町の専修寺、鯖江の誠照寺、横越の証誠寺の3つの寺院が協力し合って形成された宗派です。これらは蓮如上人の本願寺派や高田専修寺派に対抗する力を持つ一派です。

これらの門徒の中には親鸞聖人の教えではない「秘事法門」と呼ばれる教義が広まり、邪教の巣窟でありました。

蓮如上人は、それらの方々に、正しい親鸞聖人の教えを伝える為に、北陸の地に布教に向かわれました。

蓮如上人は御文章に次のように書かれています。

越前の国に弘まるところの秘事法門といえることは、更に仏法にてはなし。あさましき外道の法なり。 これを信ずる者は、永く無間地獄に沈むべき業にて徒事なり

出典:『御文章』

意訳:越前の国(現在の福井県)で広まっている秘事法門は、あさましい外道の教えである。これらを信じている者は、無間地獄に堕ちて永く苦しまねばならないであろう。

蓮如上人は、秘事法門を厳しく断じながら、親鸞聖人の真実の教えを徹底していかれました。

吉崎御坊での4年間の熱烈な教化は着実に浸透し、越前三門徒の大半がすでに蓮如上人に従ったといいます。

蓮如上人は1475年(文明7年)3月に吉崎を離れ、大阪の出口御坊へ移動されますが、蓮如上人のご布教は、大きな影響を残し続けるのです。

出雲路毫摂寺と善鎮

善鎮は、北陸に入ったのちに、毫攝寺を建立しました。

一方、父の善幸は北陸に来て、証誠寺の住職をしていましたが、後に証誠寺の住職を善鎮に譲ります。

善鎮は毫攝寺と証誠寺の2つの寺を兼務することになりました。

弟の善智は、加賀に毫摂寺を再建し、加賀郡大聖寺の毫摂寺となります。

このようにして、覚如上人時代の出雲路毫摂寺の流れは、証誠寺を中心とする越前三門徒たちと結びつき、やがて「秘事法門の類」といわれる間違った教えを広めるようになってしまいます。

そしてまだ若い善鎮は当時、仏教よりも、芸能や遊興などの世俗的な芸事に熱中するようになります。

それだけにとどまらず周囲に影響され、外道の秘術まで学ぶ始末。

教団内部の流儀もバラバラに分裂し、寺は崩壊寸前となってしまいました。

善鎮、遂に蓮如上人のもとへ

「このままでは善鎮様や門徒たちが、地獄へ堕ちてしまう……」

そんな惨状を見かねたのが、家司(家来)である渋谷という人物でした。

そして1482年(文明14年)、彼は善鎮を説得します。

「京都の山科本願寺へ行きましょう。蓮如上人から真実の教えを聞かせていただくのです」と。

渋谷の決死の説得により、善鎮はいやいやながらも、京都・山科本願寺へと向かうのでした。

「蓮如上人は我々を外道呼ばわりしておる。どんなことを言われるのだろうか……」

内心とても不安でしたが、蓮如上人と対面すると、その心も一変します。

「蓮如上人は、なんと尊い方なのだろうか。親鸞聖人の平生業成の教えとは、こんなにも深遠な教えだったとは!私は間違っていた。外道に染まっていた。すぐに蓮如上人のお弟子にさせていただかなくては!」」

蓮如上人は善鎮の願い出を快く受け入れられ、新たな法名を与えました。

その名は「正闡坊」。

「正」しい教えを世に「闡(ひら)」く僧侶になれ、という願いが込められていたのかもしれません。

そのとき寺には蓮如上人の子息・蓮誓がおり、善鎮は彼を通じて正しい仏教書を授かり、教えの神髄を学び直すことになったのです。

善鎮帰参の影響とその後

証誠寺の住職をしていた善鎮が、蓮如上人のもとに帰参したことで、証誠寺の門徒も次々と蓮如上人から教えを聞くようになりました。

ここで三門徒派証誠寺の影響力が大きく衰退していくこととなります。

そして善鎮は1484年(文明16年)まで約3年間、蓮如上人のもとで仕えました。

その後越前に戻ることとなり、翌1485年(文明17年)、善鎮が建立した寺院に対し、蓮如上人は「陽願寺」の寺号を与えました。

善鎮は越前府中御堂(現在の越前市)にこの陽願寺を創建し、以後この地は北陸布教の拠点となります。

善鎮の毫摂寺にいた門徒は、先に蓮如上人から教えを受けていた小浜の毫摂寺(現在宝塚市)に入り、一部の門徒は加賀の毫摂寺に入ったと言われています。

編集後記

それまで芸能や世俗的なことに熱中し、外道の秘術にまで手を染めていた18歳の善鎮は、蓮如上人から聞かせて頂いた親鸞聖人の教えによって、人生が180度転換しました。

真実の教えには、人の心を根底から変える力があります。

そして善鎮が蓮如上人と会うきっかけとなったのは、家来の渋谷という一人の人物でした。「このままでは地獄へ堕ちてしまう」という切実な思いで、若き主君を山科本願寺へと導いた渋谷。彼の決死の説得がなければ、善鎮の人生は全く違ったものになっていたでしょう。

私たち一人ひとりにも、親鸞聖人の教えを聞く縁を結んでくださった方がいるのではないでしょうか。そのような外護の善知識に感謝して、浄土真宗親鸞会金沢会館で、阿弥陀仏の本願を聞かせていただきましょう。

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